糸数アブチラガマ

糸数地区の住民  知念盛喜(当時23歳)

証言者

志堅原の海上挺進基地に配属される

 私は昭和20年2月18日、玉城村役場からの白紙防衛召集令状で召集され、具志頭村港川の海上挺進基地第28大隊へ配属になり、玉城村字志堅原の仁川(ジンガー)の近くの民家に宿泊していました。
召集されるまでは、糸数青年団員として増産に精を出していました。当時、私達は両親と私達夫婦、それに子供二人の六人家族でした。昭和18年の夏頃から小禄飛行場、仲西飛行場、読谷飛行場建設の労務者として徴用され、10日ぐらいの期間で水の不自由な飯場(宿舎)に泊まりこみで滑走路工事をしていました。
昭和19年7月頃糸数の部落にも武部隊が入って来ました。その後.球部隊の頃から私の家は衛生兵や工作兵の宿泊所になりました。
私が配属された海上挺進基地第28大隊は本部が長毛にあり、具志頭白水川、港川、志堅原の三個中隊に分けられていました。そこには具志頭村、佐敷村、知念村、玉城村、東風平村、島尻郡の東半分の各村の防衛隊員が配属されました。糸数からも8人が配属され、皆同じ分隊でした。

特攻舟艇を担いで志竪原から移動

 4月1日に北谷に米軍が上陸するまでは、志堅原仁川付近の海岸線に艇を入れる壕を掘ったり、艇を海に出す誘導路に丸太の枕木を敷いたり、木の葉で艇を擬装したりしました。製糖場の前の広場では訓練もありました。
3月に入って、特攻艇の検閲のため奥武島の橋の下に30隻の艇をつないでありましたが、その日に空襲があり、艇が発見され、ほとんど大破して沈没してしまいました。しかし、毎夜、漁夫達が引き上げ作業をした結果、5、6隻は無事引き揚げる事ができました。
その後、挺進基地第28大隊に移動命令があり、重さ1トン以上もある艇を30人~35人交代で担ぎ、富名腰前付近のキビ畑の中に擬装して隠してありましたが、これも敵機に見つかって焼かれてしまいました。
志堅原から移動後、糸数のアブチラガマに一時滞在しました。アブチラガマには未だ糧秣が集積されていました。私達は壕の出口の天空の見える明るい岩の上に糧秣と一緒に寝ていました。
4月29日頃、海上挺進隊は出撃のため、大里村大城から豊見城村字高安の饒波川付近に移動しました。その頃から大変暑くなっていましたので森の横に掘りこんだ土壕の中はムンムンとして湿度も高く大変でした。
5月3日夜の9時頃、石火矢橋(メガネ橋)の下で、特攻艇3隻~5隻が出撃準備のため箱型爆雷を艇に積み込む作業をしていました。丁度、その最中に砲弾が至近距離で炸裂し、隊長の本間少佐を始め30人ぐらいの隊員が戦死し、多くの防衛隊員が橋もろとも川の中へ投げ飛ばされました。私も川中に投げ出され太ももに傷を負いました。

土壕を出た途端、左首と腕を破片が貫通

 5月の中旬になると、いよいよ首里戦線から南へ下る部隊もありました。私は饒波の森の土壕から外へ出た途端、爆弾の破片で首の左側と左腕に貫通し、左大腿部もえぐりとられました。負傷で歩けなくなりました。そのとき同じ壕に入っていた当山繁雄さんも足を負傷してしまいました。私達を看護していた大城太仁さんがまた次の日に顔面をやられ、片方の眼がなくなる重傷を負いました。

負傷した私達は置き去りにされ

 5月下旬頃、海上挺進基地大隊は具志頭方面へ下っていきました。負傷して歩けなくなった私達3人は置き去りになりましたが、翌日糸数から当山繁雄のお父さん達が私達を収容に来ました。私は當山清輝さんに背負われ、私達3人は糸数の壕に連れ戻されました。そこで1回だけ山田軍医が治療をしてくれました。その後、家族の避難していたウマケーアブ壕に行きました。そこには家族以外の字民も20人程入っていました。

明るい外で死んだほうが良いと思い捕虜に

 6月3日に米兵が私達家族壕の前まで来ました。「米軍の捕虜になると男は戦車にひき殺され女はなぶりものにされる」というデマがありましたが、暗い壕の中で苦しい思いをするよりは万一米兵に撃たれて殺されようが、明るい外の方がいいと話し合い、出ることにしました。
壕を出ると外には米兵が電線をもっていたので、この線でみんな束ねられて撃ち殺されると思い、初めて米兵に銃を突きつけられた時は恐ろしくて、恐怖で一杯でした。ここで私の家族は捕虜となり糸数の製糖工場の広場に連行されました。その途中の道端には日本兵や住民が多数死んでおり、体はふくれ、はえがたかり、悪臭をはなっていました。広場に集められた時、近くに砲弾が飛んで来たので米兵は伏せろと手で合図したが、私達はどうせみんな殺されるのだからと思い、誰も伏せようとはしませんでした。
その後、米兵が携帯食(シーレイション)をくれましたが、私達は毒が入っていると思い食べようとはしませんでしたので、米兵が自分で食べて見せたので安心して食べることにしました。
その頃から少しずつ米兵は私達を殺さないかも知れないと安心感が出てきました。

家族と別々の収容生活

 私たちは字大城に、そして後に佐敷村屋比久へ連行されました。
私は米軍のシーアイシー(CIC)所で検問され、そのまま金網に人れられました。負傷していたので部隊長とでも思ったのか軍司令部の野村少佐と一緒に金網の中の二重金綱に約1週間入れられ家族とも別々に、連絡もとれなくなりました。
尋問の後、私は屋嘉の捕虜収容所に送られました。
家族は屋比久での収容生活約1ヶ月後、汀間(ティーマ)へ強制移住させられていました。汀間では僅かばかりの配給食糧で生活は困窮し、カズラやヨモギの葉なども摘んで食料にしたようですが、生後10ヶ月になる長女の勝子は栄養失調とマラリアの高熱で死んだようです。
私が屋嘉の捕虜収容所から船越区に帰った時、家族は既にそこで収容生活を始めていました。家族と一緒に字糸数に落ち着いたのは昭和20年12月10日でした。