糸数地区の住民  知念ウミ(当時35歳)

戦火を凌いで

糸数にも完全武装の兵隊さんが

 昭和19年の7月頃であったと記憶しているが、玉城村(現南城市玉城)に武(たけ)部隊が駐屯してきた。真夏のような暑さの中、那覇から完全武装の兵隊さんが長い列を作って歩いてきた。中には疲れのため倒れる兵隊さんもいてかわいそうだと思った。
それから間もなく、糸数の製糖場にも沢山の兵隊さんがやってきた。糸数部落は高台になっていて、周りは崖になっている。地盤は硬い岩盤で、そこに縦穴式の陣地を掘っていた。ノミとハンマーで汗と泥にまみれながらの作業である。
食糧も乏しく、いつもお腹を空かしての炎天下の作業、糸数の字民は自宅近くの陣地や、畑に近い陣地に朝10時と午後3時頃お茶と黒砂糖、サツマ芋等をほとんど毎日のように届けていた。
武部隊は精鋭部隊で、規律も厳しく、兵隊さんの民家への立ち入りは固く禁じられていた。それだけに字民からの受けもよく、陣地周辺での交流は親密さを増していった。
陣地構築もかなり進行し、糸数城跡の東隣に戦車壕堀りが進められた。糸数城跡の南側断崖には戦闘指揮所があり、玉城城跡あたりから攻めてくる戦車をくい止めるものだと聞いた。また糸数壕(アブチラガマ)についても測量を実施し、天然の素晴らしい陣地だと誉めていた。

長男の学童疎開と10・10空襲

 8月になって急に慌ただしくなった。長男が学童疎開すると言い出したのである。学童疎開船、対馬丸の遭難のことも薄々耳にしていたことであり、身の安全が保障されない本土への旅である。9月になって疎開も本決まりとなり、ハシケで輸送船に向かう息子を見て、これが最後の別れになるのではと胸が張り裂ける思いであった。
19年10月10日、那覇大空襲の日である。那覇の街から黒い煙がもうもうと湧き上がり、飛行機がたくさん飛んでいるのが見える。糸数馬場の崖からは那覇の街がよく見えるので、字民も兵隊もすごい演習もあるものだと見ていたら、空襲だと知らされ愕然とした。
後日、伝令で那覇の本部まで行ったある兵隊から直接聞いたことだが、那覇の町は急に爆弾や焼夷弾が投下され周りは火の海になったと言う。那覇の空襲は街の周りに焼夷弾を投下し、中に人を集め、火攻めにする戦法がとられたらしい。多くの市民が焼死したようだが,当の兵隊は戦争の経験もあり、いち早く避難する古い墓をみつけ、周りの人達を誘導し、多くの人命を救ったとのことである。
糸数に帰る時、街は焼野原なので方向を見失いがちであったが、東へ東へと進み糸数の高台が見えた時は涙が出て止まらなかったらしい。ある兵隊とは松本市在住の宇留賀正氏で健在であり現在も交流を続けている。

奥武沖からの艦砲

 武部隊は19年12月台湾へ移動した。軍隊の移動はマル秘事項だが、字民はいち早くそれを察し別れを惜しんだ。後続に球(たま)7073部隊が駐屯してきた。この部隊は工兵隊らしく、アブチラガマの整備をいち早く手がけた。字民も賃金をもらい作業に従事した。兵舎はほとんど民家の半分を借りていた。
 昭和20年3月23日(もしくは24日)。当日は彼岸で朝からご馳走をつくり、卒業式の日でもあり戦争気分がうすれていた時、奥武沖から艦砲が打ちこまれた。砲弾は、前川や具志頭あたりで土煙を上げていた。沖の方には軍艦がビッシリと浮いていて、しきりに艦砲射撃をしている。せっかくのご馳走もほったらかして、近くの壕に逃げこんだ。

糸数壕にも負傷兵と避難民が

 米軍が中部に上陸し、浦添・首里での戦闘が激しくなってくると糸数壕にも負傷兵が日ごとに多く運びこまれてくるようになった。壕内では間に合わず、近くの民家の木の陰にも担架が所狭しと並べられていた。
戦死者は、近くの畑に墓標をたて、丁寧に葬られたが、前線が糸数に迫り危険になってからの戦死者は毛布で包み、壕内の深い窪みに安置された。
当時の無名兵士の遺骨は昭和20年代前半頃、収集され、南部の魂魄の塔に安置された。
糸数には字外の避難民が沢山きていた。私の家も母屋、牛小屋に十数人避難していたが、飛んできた砲弾が一軒隣の高いガジュマルの木に当たって爆発し、残りの不発砲弾が1メートル近くに落ちた時、避難民は一言もなく逃げていった。
もし不発弾でなかったなら、私一人でなく避難民も皆即死だったと思う。城跡の南側、部落との間に大きな爆弾が落ちた時、大きな被害が出た。

改めて知らされた戦争の悲惨さ

 夜明け前、樋川に洗濯に行く途中、ヌルッとした物を踏んづけ手探りで探したところ肉の固まりである。豚肉を犬がくわえてきたのだろうと思い木の枝に置き、帰りに持ち帰るつもりでいた。夜も白々と明けた頃、先刻の肉を見てビックリした。何とそれは人の頭と顔の肉だったのである。周りには数人のものと思われる手足、肉片が飛び散っていた。戦争の悲惨さを改めて知らされた。
糸数城跡の南側崖下の洞穴は弾薬倉庫であった。首里戦線に弾薬を届けるため洞穴から糸数部落はずれまでは主に女性が箱詰めの弾薬を背負い、糸数から首里や浦添の戦線には糸数区民や防衛隊、義勇隊が弾運びに従事した。女性の中には朝鮮出身の慰安婦もいて声を上げて泣いたりしていた。
近くの屋敷を兵舎としていた長島上等兵、加藤上等兵、県出身の防衛隊の方々が重傷を負い、その後戦死した。傷の手当てや葬式等も手伝った。戦死者は馬場南側の畑に埋葬された。

雨の降る中、大腸が飛び出した負傷兵

 ある日お腹に大きな傷を負い大腸が飛び出した負傷兵が、大雨の降る中を私の家近くまで辿り着いて来た。話によると、歩ける兵隊は5月25日頃南部に下がっていったが、歩けない重症兵には青酸カリが渡され、いざという時に使用するよう言われたらしい。しかし、暗い所で死ぬよりは明るい所で死にたいと思い、ここまで来たということであった。近くに軍の炊事班いたので、お粥を作ってもらい1週間程度看病した。傷もよくなり歩けるようになると、南部に行きたいと言いだしたので、字の若い物に富名腰(ふなこし)まで道案内させた。大雨の中別れる時、糸数で死ぬところだったが戦闘がある中このように手厚い看護を受け、お礼のしようもないと感謝された。
当人は福岡県出身で元郵便局職員。息子は予科練兵で生死不明とのことだったが、残念ながら名前は忘れてしまった。

二男を連れてアブチラガマへの避難

 6月1日頃、二男を連れて屋敷近くの小さな壕からアブチラガマに移った。
そこには重傷患者の兵隊十数人と宇民がかなり避難していた。壕内には食糧も沢山あったが、監視の兵隊が一人残っていて1日1回の配給だったので夜は食糧調達のため外に出て芋掘等をした。
やがて糸数にも敵兵が進攻しアプチラガマにも空気孔からガソリンが流し込まれ火が付けられた。しかし思うように引火せず、そのうち壕内にはガスが充満した。急いで毛布を滞らしてかぶり2日、3日とガスが引くのを待ったが、その間に体力のない老人や幼児がかなり亡くなった。
後で知った事だが、米軍は初め壕の入口に小型の大砲を置き攻撃しようとしたが、砲台が滑り大砲は壕の入口に転がり落ちたらしい。次に機械で土を削り壕の入口を塞ぐ生き埋め作戦をとったがそれもうまくいかず、とうとうしまいには空気穴からガソリンを流し込み火を付けたそうである。
その後も日本の勝利を信じて沖縄戦の終決や日本の敗戦も知らず、壕から出たのは8月23日であった。

あの戦争が遠い昔のように

 戦後の貧しい時も過ぎ、やっと生活に落ち着きが出た頃、武部隊の方々が急遽糸数を訪問された。台湾に移動中、輸送船が撃沈され武部隊はほとんど全滅したとの噂もあったので、夢かと思ったが現実のものと知りお互いに生き延びたことを確認し合った。武部隊の方々とは現在も交流が続いている。
昭和61年頃だったと記憶しているが、千葉県出身の長島さんという方から玉城村商工会に「父の戦死場所は玉城方面だだったと聞いている、調べてくれないか。」との連絡がきた。早速千葉県の長島さんに連絡を入れたところ、かつて私達が埋葬した長島さんに間違いないと知り、家族の方々が糸数に来られた際、戦死の状況や埋葬地、遺骨は南部の魂魄の塔へ収められていることなど、当時の模様を詳しくお話申し上げるができた。
平和で何不自由ない昨今、あの悲惨を極めた戦争が遠い昔のことのように思われたりする時がある。平和が永遠のものでありますことを祈りながら。