糸数アブチラガマを中心にした戦闘経過概要

月日 事項
昭和19年 7月頃

日本軍の各部隊が玉城村に駐屯し、陣地構築が盛んになる。

第九師団第19聯隊第一大隊(武<たけ>部隊)の本部が玉城国民学校に置かれた。

第九師団(武部隊)アブチラガマに入り整備を始める。

10月10日

那覇大空襲

11月末頃

配備変更により石(いし)部隊独立歩兵第15大隊の本部が玉城国民学校に置かれた。

昭和20年 12月27日

強力な武部隊が台湾へ移動

2月1日

配置替えで独立混成第15聯隊(美田大佐)の本部が玉城国民学校に置かれた。

球(たま)部隊の美田聯隊が玉城国民学校から糸数の民家に入った。

製糖場の発動機を動かしてガマ内に電線をひいて明るくした。

ガマ内に直径1mの空気孔が設置された。

3月20日頃

美田聯隊が糸数城跡の南側にある戦闘指揮所の壕に入る。

3月23日

港川沖より艦砲射撃が始まる。

3月24日

村民は割当てられた避難壕へ移動した。港川沖よりの艦砲続く。糸数の住民200名位が糸数アブチラガマに避難する。

4月1日

米軍沖縄本島中部の西海岸へ上陸。

4月上旬

海上挺進基地第28大隊が志堅原(しけんばる)基地よりアブチラガマへ移動。

ガマ内には多くの軍需物資の食糧が積まれ、ガマ内に発動機があった。

4月27日

美田聯隊首里前戦へ移動した。

海上挺進基地第28大隊の防衛隊もアブチラガマより出る。

4月28日

南風原陸軍病院より大城軍医を長として糸数アブチラガマへ移り糸数分室とし医療体制を整えた。

5月1日

ひめゆり学徒隊14名が大城知善(おおしろちぜん)先生に引率され、南風原陸軍病院より未明にアブチラガマにきた。この日多くの重傷患者がきて看護にあたった。5月2日以降も次々と重傷患者が担ぎこまれた。

5月10日頃

アブチラガマへ増援のため軍医の西平中尉、薬剤少尉と兵8、9名も一緒にきて治療にあたった。

5月12日頃

屋富祖(やふそ)軍医とその家族、ひめゆり学徒隊2名が応援にこられた。

5月中旬頃

ガマの中の重傷患者の傷は悪化し、膿とうじだらけになり、脳症患者、破傷風患者が増えた。

5月25日

撤退命令によりアブチラガマから重傷患者とひめゆり学徒隊は南部の伊原糸数分室壕(第一外科壕)へ移動。歩けない患者百数十名と糧秣監視兵4名は残る。

5月26日~30日

残された重傷患者が次々と出て南部へ撤退する者もいた。

5月末頃

米軍玉城村へ進入。村内の百名に米軍の兵舎が建てられた。

6月1日

村内の一部の避難民は米軍に収容され、玉城村の百名収容所へ入る。

6月6日

糸数アブチラガマが米軍に攻撃される。2名の米兵がガマの中に入って来たが小銃で威嚇射撃をしたので逃げて行った。

6月8日

現在の出口から黄燐弾を投げ込まれ、火傷をした者がいた。

6月10日頃

出入口や空気孔からガソリンの入ったドラム缶20本をガマの中に流しこまれたが、幸にして引火せず燃えなかった。このガソリンの臭いで住民と重傷患者が苦しんで死亡者も出た。

6月13日~14日

米軍が現在の出口に大砲をすえて攻撃しようとしたが、大砲を下にずらしてしまい目的を果たすことが出来なかった。

米軍が現在の出口を土で塞いだ。

6月17日

糸数アブチラガマから撤退した伊原糸数分室で至近弾が炸裂し、多数の学徒隊と兵士に犠牲者が出た。

6月23日

沖縄での戦闘終わる。

8月15日

日本無条件降伏

8月22日

糸数アブチラガマにいた避難民はガマより出て米軍に収容された。

ガマの中に生き残った7名の傷病兵も避難民と一緒に出て米軍に収容された。

9月中旬頃

ガマの中にたてこもった最後の兵と住民の2名計3名が米軍に収容された。

昭和23年頃  

部落内にあった遺骨を収集し、アブチラガマ出口の慰霊碑の所に集めた。

アプチラガマ内の遺骨収集を本格的に行なった。

昭和32年頃  

アブチラガマの遺骨はカマスに入れ南部の「魂魄の塔」に運んだ。

平成6年  

アブチラガマの整備委員会を設置

取扱書籍紹介

沖縄戦「集団自決」 消せない傷痕

写真:山城博明 解説:宮城晴美

沖縄「平和の礎」はいかにして創られたか

高山朝光(著), 比嘉博(著), 石原昌家(著)

観光コースでない沖縄

新崎盛暉(著),諸見里道浩(著),謝花直美(著), 松元剛(著),島袋良太(著),前泊博盛 (著), 亀山統一 (著),仲宗根將二(著),大田静男(著)