軍医中尉 西平守正 当時29歳

無謀な沖縄戦

私は軍医として満州の武(たけ)部隊に勤務しておりましたが、移動により昭和19年7月に沖縄戦へ参りました。同年10月10日の大空襲で那覇はほとんどが灰燼に帰してしまいました。その後私は沖縄陸軍病院第3外科に入院した。その後間もなく私の所属する武部隊は12月の末頃台湾へ移駐する事になった。私は後に残って退院後の患者600名を引率して、後便の船にて来るようにとの命令でしたが、戦況は次第に悪化し、入院中の患者は後の船便もなく、とうとう沖縄のそれぞれの各部隊へ転属になりました。
軍医は飛行機にて、すぐ来るようにとの事でしたが、その時から既に飛行機はなく、私は行くに行けず、そのまま第3外科に厄介になり、途方に暮れていました。戦争が激化してから自分の所属する部隊もなく、行くべき所がなかったら大変だと思って、私は毎日夕方艦砲が少し小止みになった所を見計らって、津嘉山(つかざん)にあった軍医部に沖縄部隊への転属を陳情しに日参しました。しかし軍医の転属は上層部からの命令がなければ、現地部隊では出来ないとの事でなかなか転属は出来なかった。その内米軍は昭和20年4月1日に沖縄本島の西海岸に上陸し戦闘は激烈となり死傷者は続出し、5月10日頃遂に待ちに待った転属の命令がやっときました。私は沖縄陸軍病院付きとなり、所属すべき自分の部隊も決まって、本当に嬉しい思いがしました。これで戦争で自分の働き場所が決まったんだと言う、安心感も出来ました。一行は鷹取薬剤少尉、藤井軍曹ほか、兵7~8名が分室の要員として、即日夜陰に乗じトラックに乗って、無灯火のまま敵照明弾のなかを玉城村糸数の壕につきました。大城見習医官は先遣要員としてすでに着任していました。5月1日に大城知善先生の引率のもと、ひめゆり学徒隊14名もここへきて、その他女子看護要員も従軍し、過激の勤務に挺身しました。
糸数壕は天然の大きな鍾乳洞の壕で、負傷者の収容や艦砲の避難には格好の場所でした。南風原では艦砲や照明弾が激しかったが、糸数は静かであった。私が来た時は壕の中は真暗で、発電機はあったけれど、電燈はついてなかった。多分これを取り扱う人がいなかったであろう。その頃戦争の激化と共に、前線の死傷者はおびただしく、第一線で応急措置を終えた患者は、昼夜を分かたずどんどん運びこまれた。にわか仕立ての分室で、寝台もなく、板や木材の資材も一切無しで、自動車も無く、本部からは一切、兵員資材の補給もなかった。僅か7~8名の兵隊で、患者収容の寝台をどうして準備するか?皆大変な心配と、あせりを感じました。次々と運びこまれる重症患者の収容をどうするかと言う事で大変困りました。私は衛生兵に命じて糸数部落から資材を集めて急造ベッドをつくって休ませていた。10人足らずの兵とひめゆり女子学徒、更に若干の看護要員だけで、食事の準備、分配、看護、糞尿の始末等の仕事で、患者の怒号悲鳴の中で皆必至の思いで頑張りました。最初は私と大城軍医が負傷兵の治療にあたって休む間もなく暇もなく朝から晩まで働いたが、民間開業医の老年の屋富祖先生が応援にこられたので助かった。
壕の中は折り悪しく、天井から落ちるしずくの為、下は泥濘となり、高熱にうなされの脳症をおこし、転々反転、又は痙攣をおこし、架設寝台からころげ落ちる者、暗がりのなか、阿鼻叫喚、そのなかを悲壮な声で、患者の臨終を知らすひめゆり女子学徒、まるで地獄絵図さながらの様相でした。壕内には薬品や手術器具類も十分にないので、壕内での手術は少なく、痛みどめや輸血等もやらなかった。私は壕内では小さい電池に豆電球をつけて歩いて負傷兵を治療していたが、薬品はほとんどもってきてないので、治療に手間どった。壕内には井戸があり、多くの負傷兵は助かった。砲兵隊の兵隊が壕の中に入って来て、竹筒のような物に爆薬を準備し、キビ畑にかくしてあった大砲は敵にとられたらいけないという事で、この爆薬で砲身を爆破すると言って壕から出て行ったが、この兵隊たちはどうなったか知らない。
糸数壕の負傷兵は数えることができないほど多く、おそらく500~600名ぐらいはいたと思う。食事の場合多くの負傷兵へオニギリを一つずつあげるのに時間がかかった。糸数壕では全員死力を尽くして、救護活動に全力を尽くしました。兵も看護婦もひめゆり女子学徒隊も命の限り働き、一生忘れえぬ悲惨、困難、疲労、恐怖を味わいました。しかしそこも5月25日になって、戦況の急変で南風原病院本院と共に、この方面の敵の襲来がすぐ近くまで来たため、火急に摩文仁方面へ撤退するようにと命令が下りました。
本院からの命令は、つぎの通りでした。
「戦況悪化のため、本院は摩文仁へ至急転進する。糸数分室も明日までに、早急に摩文仁に転進せよ。患者輸送については、輜重隊の全力であたるから、準備しておくように。」と、以上の命令が来たので私は、全員に知らせ朝から準備して、待機していた。しかし午後になっても、なんら協力の兵隊も来なかった。とうとうしびれをきらして、地元出身の地理にくわしい高嶺一等兵と長吉一等兵を弾雨の中・南風原本院へ至急の伝令として出発させた。本院ではちょうど庶務主任が大急ぎで撤退中で部屋から外へ出る途中で、少し用件を話しただけで「お前未だ撤退しないのか?早く摩文仁へ撤退しろ、敵はすぐ来るぞ」と言われたとの報告であった。私はそれを聞いて、戦況の急の悪化に驚いた。早速緊急に幹部を集め状況説明し、「今日中に摩文仁に撤退すべし。」との命令が下ったことを伝えた。兵員も少なく機材も輸送力もない、本院の輜重隊の協力も見込みない、分室としてどうしたらよいか?結局、自力で又は連れていける者はつとめて連れて行く。全然連れていけない者は、残って貰って、本院の応援を得てなるべく早く連れにくるようにする。長吉一等兵は自分の親戚の伯父さんが入院し、皆と一緒に撤退出来ないから、自分は伯父を見ながら、後に残るといったので、患者の連絡や後の事を託して皆は夜の12時頃歩ける負傷兵と看護婦、衛生兵、ひめゆり学徒隊は南部へ移動したが、各自めいめい歩いて行ったので何名の重症患者が残ったかわからない。この撤退については、多くの悲劇や無理、困難が伴い、今もなお胸の奥に残る悲しい思い出となっています。
私達糸数分室は、糸数壕から撤退して南部の糸洲壕(現在、糸満市「第2外科の碑」のある壕)にしばらく全員入りました。しかし数日後、糸数分室は解散の命を受け、ここで解散しました。即日私は本部診療主任の命令を受け、その日の夕方、本部壕に就任しました。その日の午前中に、広池院長は壕入口にて、下腿部に爆傷を受け、私がお見まいに行った時は、重症で意識昏睡状態でした。色々手当しましたがガス壊疽になり、副院長佐藤少佐執刀のもと、下腿部切断手術を施行しましたが、しかし遂にお亡くなりになりました。
その頃偶然、同郷の友人、岸本本秀君が訪ねて来ました。彼は憲兵で私の知らない、軍の極秘情報を私に話してくれました。彼の話しによると、前日の軍司令官会議において既に玉砕を決め、全軍突撃、無電設備も焼却破壊せよとの指令が決定しているとの事、これは彼が軍司令官会議を傍聴したので、確かな情報だと言っていました。これまで戦争は絶対勝つと思っていたのに、負けるとは考えもしなかった。私は愕然として、彼を見詰めた。更に彼は「憲兵隊も、もう解散同様自由行動だよ。戦争が負けて、今更死んだら、犬死だよ。」と、彼はいった。「これから国頭(くにがみ)突破するんだ。」と、彼は笑った。後日、沖縄陸軍病院解散の進言を私が佐藤少佐に申し込んだのも、岸本君の国頭突破しか生きる途がないんだと言う信念を私も共鳴したからだった。私は皆より早く、無謀の戦争の結末を岸本君から知らされた。
怒濤の如く押し寄せる米軍の圧力、軍司令部との連絡も途絶えた今、周囲の戦況、今を逸せば国頭への脱出の好機はないものと思い、今のままでの集団行動は敵の目標となり、全員戦死するかも知れず、各個人単独行動すれば、或いは国頭突破も又家族との再会も出来ると思い、私は佐藤少佐に病院の解散を、極力進言しました。暫く考慮後、「うん解散しょう。」と、少佐は力強く同意されました。私は嬉しくて「お一い解散だよ。国頭突破だ。」と、誰にともなく叫びました。とうとう6月18日午前0時を期して解散となりました。

振りかへれば無謀な戦争

壕だけで準備その他資材も無く、人員僅か兵10名前後そのほか、ひめゆり女子学徒だけで、沖縄戦の多数の戦傷者、数百名を収容、治療、看護せよ、とは無謀。
数百人の患者の輸送手段を、協力せず、輸送資材も与えず、摩文仁に今日中に、撤退すべし。と言う命令は無謀。
無謀な戦争と思いながらも、皆抗しえず、あるだけのカを振りしぼった。たが、結局多数の貴重な人命を失った。馬鹿な結末を見た。
今こそ平和の有難さを、しみじみ感ずる。